定位脳手術

ジストニア|定位脳手術を受けました(手術当日編)

クラリネット奏者の葛島涼子です。最近ではネット周りでは「クズシマ」という名前でYouTubenoteでも活動しております。

2020年9月24日
東京女子医大でジストニア治療のために定位脳手術を受けました。

手術の日に感じたことをありありと描写していきます。「怖いの見たくない」という方はちょっとだけ閲覧注意です。そんな私も怖いのもグロいのも苦手です。


起床〜朝の支度

手術当日。7時30分から、手術台に頭を固定すフレームを装着するので、それまでに朝の身支度を整える。入院してから毎日看護師さんに起こされるまでは寝ていた私でさえ、流石に緊張しているのか、自然と6時に目が醒めた。

前日に看護師さんから受け取った手術着に着替えて、手術中の血流が悪く夏の防止?のためのメディキュットみたいな靴下をはく。手術着は紙みたいで心許ない。下着もつけずに直で着るので、スースーするし、紐で縛っているのだけなので、はだけそうで心配。下半身は自分のパジャマ。汚れることはないとのことだったので、お気に入りのものを。

この日は一日絶食。朝ごはんもなし。歯を磨いて顔を丁寧に洗う。

看護師さんが検温と血圧測定、そして痛み止めのテープをまゆの上に貼ってもらい、痛み止めの内服薬を飲む。

もう病室には帰れないそうなので、手術室に持ってきてもらう楽器などの支度を整えて、彼に連絡。ピースしている余裕あり。手術では化粧コンタクトもダメなのでスッピンでメガネです。

固定具装着

いつが1番痛いですか?」手術説明の時に先生に質問したら、
「人によりますが、手術前に頭にフレームをつける時が1番痛いです」
という答えでした。
ちなみに手術中は痛い事はないという説明だった。

そんなことを聞いていたので、いきなりビビりながら向かう。

ナースステーションの裏で、いつも毎朝様子を見にきてくださる若い先生と、看護師さんのふたりで、フレームを装着していきます。(後から、私服で手術に入る先生が覗きにきてくださった)

車椅子に座った状態で、まずは点滴。
この時さした針から、痛み止めやら抗生剤やらを入れていったので、この針は翌日の夜寝るまでずっと、抜けませんでした。

「気分が悪くなったりしたらすぐに言ってね」
と言ってくださり、フレーム装着開始。

頭の4箇所でガッチリネジ?をしめて固定していくそう。まずは、固定する場所にペンで印をつけます。髪の毛が邪魔。前髪ピンで止めてこれば良かった。テープで前髪止められました笑。

固定する4箇所に麻酔を打ってもらいます。
「この麻酔が痛いのか‥‥」と思ったら身体が硬くなった。
でも、先生が、「ちょっと痛いよーちくっとして、入る時にちょっと痛い!」という細かい解説を入れながら注射してくださったので、全然怖くなかったです。痛みも大したことなかった

それに、先生のおっしゃっていた通り、手術の一連において、これ以上の痛みがあることもなかった。現代医療すごい。ありがとう麻酔。ありがとう先生。

麻酔が終わったらいよいよフレーム装着。頭に金属の音がガチャガチャ響く。
先生がずっとなんか話かけてくださるけどあんまり余裕がない‥‥。でもこれまでにいろいろ会話した先生方だったから、信頼できたし安心できた。

先生「音大は違う楽器との合コンはあるの?」
私「そもそも男性の人数が少ないのでないです。音大では男であるだけで無条件にモテます」
先生「俺も音大入れば良かったのか」
私「‥‥(たぶん外科医のがモテますよ先生。)」

そんなような本当にくだらない会話だったと思う‥笑

大きな病院の先生っておじさんばかりかと思ったら、みなさん多分私とそんなに年齢変わらないくらい?

この日まで、5日間も入院して、毎朝回診にき来てくださる時に先生とポツポツとした何気ない会話も必要なことだったみたい。

麻酔がきちんと効いているようで、装着するのは全く痛くなかった。
締め付けられて一瞬視界がグラグラしたけれど、大丈夫だった。先生方も看護師さんもいてくれたから、全然怖くなかった。

手術の前に一人で東京に向かう行き道のほうが、よっぽど不安だった。

平先生のチームの先生方も看護師さんもみんな、とても信頼できる。

私の周りの人は手術のことをこれでもか!というくらい疑ってかかっていたし、私もそうだった。

でも、この頃の私は、手術に関わってくださる全員を完全に信頼しきっていていた。

当たり前だけど、みんなプロだし、本気だ。自身が手術がうまくいくようにみなさん尽くしてくださる。心から嬉しかった。私の手術のために力を尽くしてくれる人たちのことを私が信頼しなくてどうする、、、。

器具をつけたまま、車椅子でMRI。器具をつけているせいで頭が重いのでうまく歩けない。ヘルパーさんと看護師さん、先生も後から来てくださった。

たったひとりで手術を受けること決めてからこの日まで、ずっと心細かった。不安だった。

反対される中、自分の意志で手術を決めた以上、そんなこと、誰にも言えなかった。心強くて、嬉しくてMRIのあの騒音の中で少し泣いた。

MRI〜手術室へ向かう

MRIが終わったらこのまま手術室にいくそうなので、お手洗いを済ませる。要介助状態なので、トイレの中まで看護師さんがついてきてくださる。申し訳ない。
そしてこのタイミングで生理がきた。空気読んでくれ。私の人生はいつもタイミングが悪い。お腹痛い、さいあく。

ここでヘルパーさんとはお別れ。
「大丈夫だから、頑張ってね」
と声をかけてくださった。安心感のあるお母さんみたいな方だった。

看護師さんに車椅子手術室まで連れて行ってもらう。少し時間が早かったようで、手術室の緊張感漂う廊下みたいなところで待つ。9時30分手術開始。コンサートの本番を待っているみたいだ。

血圧を測ってもらい、体調に異常がないか改めて確認。楽器を持ってもらっている。いつ組み立てるか心配だったので質問したら、「中に入って手術室の看護師さんに確認しましょう」とのことだった。

手術室専門の看護師さんが迎えにきてくださった。明らかに仕事ができそうな頼もしい方だ。一瞬で信頼できる人だということが伝わった。

「楽器は手術室に入って手術台に上がる前に組み立てましょう。私に持ち方など教えてくださいね」と手術室の看護師さんがおっしゃった。

いよいよ手術室の扉が開いた。看護師さんの「おはようございます」の声と共に一緒に挨拶するくらいの余裕はあった。

手術開始前

手術中はコンタクトレンズができず、頭に器具がついているのでメガネもできず、ずっと裸眼(視力0.01以下)の状態だった。平先生が手術台のところにいらっしゃるのは声と気配でわかったけど、他の先生がどなたがいらっしゃるのか手術終了後までわからなかった。多分目が見えていたら、恐怖もあったかもしれないけれど安心感もあったと思う。残念。

楽器を組み立てて、簡単に看護師さんに持ち方などを説明する。音を出すかもしれないので、一瞬音出しさせてもらった。手術室でクラリネットの音が鳴り響く。なんか滑稽だ。

準備ができたら、まず、本人確認のために名前と生年月日を言う。
実は手術前日が誕生日だった。手術室の看護師さんが「昨日お誕生日だったんですね!おめでとうございます!」と言ってくださった。嬉しかった。一瞬だけど、緊張の糸が解けた。

そして、「今日はなんの手術をするか簡単に説明できますか?」と質問される。「左手のジストニアのための、右の脳の手術です」と言う具合に答えた。いよいよ緊張してきて、話している口周りが震えているのを感じた。

車椅子から自分で立ち上がり、手術台には自力で登った。

手術開始

頭にはめているフレームをガッチリ手術台と固定します。
「大丈夫?角度きつくない?」と先生が聞いてくださった。正直、フレームはめていて感覚が鈍くなっていてよくわからない。頭周りのの感覚は鈍いのに緊張はピークに達し、身体が震えているのがわかる。

「手さえ頭のところに持ってこなければ身体は何しててもいいからねー。バタ足してもいいんだよ笑」と気さくな感じで先生が声をかけてくださる。それなのに、終始心に余裕がない。

「暑くない?寒くない?」と聞かれたけれど、緊張でよくわからない。怖くて身体の震えが止まらないので、部屋を暖かめにしてくださった。

手術台に固定されて、心は落ち着いているはずなのに、恐怖で全身の震えが止まらない。

私のキンキンに冷えた手を看護師さんが握ってくださる。ビニールの手袋ごしでも手の暖かさを感じると安心した。

看護師さん「音楽かけましょうか?」
私「何かクラシック以外、日本語以外のものをお願いします」
ワンオクをかけてもらった。よく知らない曲で良かった。その曲がずっとリピートされていたのに、もう今どんな曲だったか思い出せない。

固定されてからは、あっという間だった。

定位脳手術は全部で短くて25分、長くて50分くらいの手術だと伝えられていた。時計がうっすらと見えた。どんなに辛くても数十分で終わると思ったら頑張れた。

身体中に様々なシールが貼られ、血圧を測られながら、頭の消毒が始まり、平先生が「麻酔撃ちまーす、これだけちょっとチクッとするから頑張ってね」とおっしゃった。
フレームをつける麻酔と同じくらいの痛さ。でも1回きりだったので、全然平気だった。「もう終わりですか?」と聞いてしまうくらいだった。

ここからあれよあれよと頭が開けられていったよう。
ジャキジャキと髪の毛を切るような音は多分頭を切っていたのだと思う。意識のある中でそんなことをされていたのだと思うと、今考えても震えが止まらない。

でも痛くはない。髪の毛がぶちぶちと切れるくらいの感触。
ちなみに、東京女子医大のチームは唯一定位脳手術の時に髪の毛を剃らないのだと、のちに先生に教えていただいた。一部分くらいハゲてもいいと思っていたけど、正直ありがたい。

都度都度、頭に消毒液をかけられながら作業が進んでいくので、時々冷たい感触がある。

何十分も立っているのに震えが止まらなくて、先生に
「大丈夫〜?」と聞かれる。
私「心は大丈夫ですけど、身体の震えが止まらないです」
本当にその通りだった。

恐怖で意識を失ったら、楽器の改善度が見れず手術は成功しない。
人間はしっかり呼吸をしていれば、意識を失わないと思うので、手術台の上ではずっと「吸って、吐く、吸って吐く」と思いながら、必死で呼吸していた。
看護師さんがずっと腕をさすってくださっていた。

頭蓋骨に穴を開ける(怖いとこ)

あれよあれよといろいろ進み、いよいよ頭蓋骨に穴を開ける時がきた!ここまで本当にあっという間だった。多分手術台に横になってから。10分程しか経っていなかったと思う。

「大きな音が鳴りますけど、絶対大丈夫ですからね」絶対に力が込められていたように思う。
「30秒くらいで終わるので、頑張りましょう」ドリルを持っていると思われる先生がそう言った。人は終わりがある苦しみは耐えられるようだ。

あっという間に始まった。「ゴゴゴゴゴゴゴゴ」と歯医者のすごいバージョンの音が頭蓋骨に響き渡る。全然痛くないけれど、なんと形容して良いかわからないくらいの恐怖だった。

最初は怖すぎて何も考えられなかったけど、だんだん「まだ終わらないのか??」と考えるくらいには余裕になってきた。

痛みはないけれど恐怖がすごい。歯医者で痛くなる一瞬前のような感覚がずっと続いていた。

それから秒数を数え始めたけれど、おそらく全部で30秒以上かかっていたと思う。。貫通に近くに連れて、耳の横が熱いような感覚が少しあった。息をすることだけに意識を傾けた。手術台の上に仰向けになって寝ていると、ライトしか見えない。怖いと言う気持ちを拭えない。看護師さんがずっと声をかけてくださっている。

「ボコ」っという少し鈍い音がして、ドリルが止まった。貫通したみたいだ。なんだか耳の奥に不思議な感覚がある。

「山場は越えましたよ!」と看護師さんの声。
何分間恐怖に震えているんだろう。ここまできても慣れない。

「もうあとちょっとだからね」と平先生の声も聞こえる。

「耳の奥が痛いような熱いような感じなんですけどこれ、大丈夫ですか?」と聞いたら、別の先生が「ここだけ麻酔効かないんですよ」と怖いことを言った。でもその声で、入院中にお世話になったあの先生だ!ということが発覚したので、なんか変に安心する。

それ以上痛くなることはなかったけれど、頭に穴が空いていると思うと、ひどくゾッとしたし、麻酔は効いていたけれど、頭の奥、(頭の奥には耳があるなんて生まれて初めて感じた)になんだかずっと不思議な感覚があるような気がしていた。

焼くとこ(大事なところ)

ここからが手術で1番大切なところ、脳の一部を焼いて、ジストニアを取り除きます。

当たり前だけど、視力0.01しかない私の視界には天井しかないので、頭の横で行われていることや先生の姿は見えない。脳手術って歯医者さん以上に先生が上にいるんだなぁ。

怖い恐怖に対しても緊張していたけれど、1番この時に対して緊張していた。手術の恐怖はたった数分間。1番大切なことは、自分の症状が手術でしっかりと治ることだ。本当に治るのかどうか不安で、怖かった。手術に対する恐怖のナンバーワンはこれだった。頭を開けたのに治らないなんて、辛すぎる。

テレビで、脳に熱を与えた瞬間に手が動くようになって感動している患者さんを見た。本当にあのようになるのだろうか。

前日に先生からの説明で、「その場で症状の改善が見られない患者さんもいらっしゃいますが、我々が施すとは同じですのでご安心ください」のようなことを言われた。効果が出てほしいと期待していた。

ドリルでダメージをくらって、ゼーハーしているうちにあっという間に始まった。

「では楽器を持ってみましょう」と看護師さんからクラリネットを手渡される。楽器を持ったら恐怖による震えが止まった。考えたら、これまで、震え上がるような緊張の中、何度も自分の足でステージに登ってきたんだ。人間の反射ってすごい。

「症状が出る指の動きをずっとしててね」と先生から指示。
音は出さずに指だけ動かす。寝た状態で楽器を持つって大変だな。右手が痛い。

はじめに先生から「これはどうかな?」と聞かれたときは何にも変わっていなかたった。少し焦る。でも必死に指の動きを続けた。

「少しでも変わったことがあったら言ってねー」と言われても何も変わらない、、、一度だけ、左足の足先に痺れを感じたのですぐに伝えた。
次に「これは ?」と聞かれる頃には足の痺れは取れていた。

感覚は微妙なものなので、聞かれてから答えるまでに「少し待っていただけますか」と、時間をいただくこともあった。

足の痺れを感じてから次の変化で、指の感覚が少し変わったような気がした。でも正直はっきりとした感覚ではなかった。「もしかしたら治らないかもしれない」と、緩やかに絶望が押し寄せてきた。治らないのが1番怖い。

少し改善が見えたような感じだったので、楽器と一緒に持ってきたパソコンに切替える。目が見えないのでキーボード位置が全くわからないし、パソコンでは症状は少し出るけど出ない時もあるので、こんな微妙なこと判断できなかった。

「どうですか?」と聞かれて、「大丈夫ですね」とトンチンカンな答えを返すくらいだった。パソコンならこの指でも大丈夫、指に変な麻痺がないことはわかった。

再び楽器に持ち替える。
なんか改善されたような気もするし、しない気もする。指の動かし方(フォーム)を少し変えたら指の巻き込み(ジストニアの症状)がなくなったような気がした。でもここは重要だ、わずかに残っている気力と体力と集中力を振り絞り、指に意識を傾ける。

この辺りは記憶が曖昧だけれど、先生方が「指動いていますよ」「素人の僕たちからみても変わったってすごいですよ」と言われ渋々「はい、、、」と言ったような気がする。

完全に改善された自信がなかった。

でも振り返ると、あの時もほぼ直っていた状態になっていたのだと思う。手術の寝た姿勢でよくわからなかったのと、ジストニアを誤魔化すフォームのせいで、症状の改善を実感しづらかったのだと、振り返ると思う。

あまり手術が長引くと身体に負担がかかり良くないそうなので、先生方も早く場所を見つけたいのだろうなと感じていたからこそ、私は自分の感覚に神経を張り巡らせることに必死だった。

「少し前にずらしたらよくなりましたね」なんて先生同士の会話の声を聞きながら、楽器を再び看護師さんに預け、複雑な気持ちのまま手術台の上で脱力していた。

平先生より「もうあと5分くらいで全部終わるからねー」と声をかけられる。これで終わりなのか。

この後のことはほとんど覚えていない。先生がいろいろなことを話しかけてくださった「クラリネットはなんでこんなに金属いっぱいついてるの?」「誰がこんなにキーを多くしたの?」など、雑談のようなことだったと思う。多分この雑談がなければ、意識飛んでいたと思う。なんとか必死に答える。でも頭の中では「本当に治ったのだろうか?」と言う考えがグルグルしていた。

手術終了

頭を閉じる作業はあっという間だった。気付いたら、もうすべて終わってシャンプーされていた。お医者さんにシャンプーしてもらえるなんて不思議な体験だ。
看護師さんや先生がいろいろ話しかけてくださったけど、終始余裕がない。思考も感情も忙しい。

術後は頭を動かせないので、手術台から、担架へはスライダーで移動してもらった。あれ、なんて便利なのかしら。するっと移動できて笑ってしまった。もうそのくらいの余裕はあった。

手術室でフレームを外してもらう。外すと途端に痛みが来るらしい。すぐに点滴で痛み止めを入れてもらう。痛いけれど、全体的に身体の感覚が鈍っていてよくわからない。

この手術で感動したのは、先生の手際のよく的確で安全な手術はもちろん、手術室の看護師さんの気遣いの素晴らしさだ。恐怖で震え上がる私の身体をずっとさすりながら、先生方の指示で動きながら、ずっと身体だけでなく気持ちも汲み取ってくださった。

手術室を出る時、なんとしても看護師さんにお礼を言いたかった。

頭も痛いし、手術を終えて脱力してしまっている身体だったけれど、残された力を全部振り絞って、
「〇〇さんありがとうございました、すごく心強かった」と伝えた瞬間に涙が止まらなくなった。安心したみたい。
「良くなりますからね」看護師さんはそう声をかけてくださった。この言葉は本当だったことを翌朝知ることになる。

その後ずっと泣きながら運ばれていたら、運んでくださっていた先生が「頭、涙が出るほど痛いですか?」と言う冷静沈着なコメントをくださって、先生のそう言うところも好きだなと思った。

病室へ

術後、ボロボロすぎる見た目が笑えて写真撮っておいた、白いところが術跡、絆創膏のところはフレームの跡。いろいろ汚くてすみません。

手術室にいたのは50分間くらいだと思う。病室に術後は24時間は絶対安静。
病室についたのは11時くらい。12時過ぎたら、水は飲んで良いそう。

トイレはベットの上で。
バルーン(管)入れるか簡易トイレかどちらにするか聞かれる。
簡易トイレはちりとりみたいなのに、おむつが敷いてあってそこですると言うもの。この歳にして、トイレの世話をしてもらうことになるなんて‥‥。なかなかつらかった。

その日の午後に寝たきりのままMIR。異常がないか確認。
あとは日すらベットで寝たきり、長い24時間だった。薬を入れてもらっているので頭痛はそこまででもない。それより楽器が吹けるような手になったかの方が心配だった。寝たきりなので楽器を手元に持ってくることもできない。

手術の日の午後、平先生をはじめ、手術に関わってくださった先生方が回診にいらっしゃった。
先生「MIRの結果は問題なかったからね」
先生「麻痺とか話づらさとかない?大丈夫?」
私「大丈夫です‥。楽器の改善度が心配です」
先生「楽器は明日からだね。」
と言う短いやりとりする。

眠ったり起きたりしながら、24時間をなんとかやり過ごす。スマホを見るしかできることがない。手術の報告する相手もそんなにいないし、動画を見ても直ぐ飽きる。半沢直樹はもう全部観てしまった。

早く時間が経ってほしいと思ったけど、治っていなかったらどうしようと思うと、楽器を触るのが怖かった。

長い夜だった。
深夜に起きて、頭が痛くて、ナースコールで薬を足してもらうようお願いした。

続きです

ジストニアの定位脳手術を受けるまでの期間のこと

2020年9月23日、左手ジストニアに対する定位脳手術を受けました。

手術を受けたいと思って、動き始めたのは2019年11月。外来の予約待ち、手術待ち、コロナの影響によって、手術までは約一年弱かかった。

その期間、覚悟をする時間として必要だったのかもしれない。

練習しても前に進まない身体で手術を待っている間、人生までもが前に進まないのは嫌だったので、YouTubeを始めた。少しずつだったけれど、たくさんの人と出会えた。生きていることが無駄ではないと少しだけ感じることができた。

私がジストニアを自覚したのは2018年1月、28歳のことだった。手術の前日に31歳になった。

音楽家として良い年齢の2年半以上、ジストニアを抱えて、思うような活動ができなかった。でも結果治った。絶望を抱えて生きていたこの期間もいつか過去になるのだろうか。

外来受診〜手術まで

2020年2月前半に東京女子医大の平先生の外来を受診。手術の約束をし、
そこでは「おそらく6〜7月くらいに手術かな」と言われていた。

手術の日程が確定したら1ヶ月前くらいに連絡をいただけるそう。

そんなこんなでCOVIT-19の感染拡大により、世界はあっというまに変わってしまった。2月末から6月いっぱいまで手術はストップしていたようで、私のもとに電話がきたのは8月18日だったかな。お盆休みの最後の日、スーパーで買い物していたらいきなり電話が入った。

このような世の中になるまではいち早く手術を受けたかったが、みんなが大変なこんな世界になってしまってからは、「私のような不要不急の手術はしばらくしてもらえないだろう」と半ば諦めていた。

手術を受ける覚悟の記憶も遠くなっていた。手術で2週間以上仕事を休むこと、万が一のことも考えて身の回りのことを片付けることで手術まではバタバタだった。

手術が決まって

術後の体調が良くなくてもYouTubeの更新が止まらないように、2ヶ月先まで動画の更新予約をした。ちょうど9月からはnoteでクラリネットサークルというサービスを立ち上げていたので、その運営にも追われている時期だった。

加えて、同居人にも家族にも手術のことを猛反対されていたので、一滴だって弱音を吐くことはできなかった。すべて私自身が望んで、自分で決めたこと。

入院にあたって金銭的な保証人を立てることができなかったので、先にお金を納めて解決した。それだけでよかった。ほとんど誰にも報告せずに手術をした。そのことで手術をしてもらえないのではないかとずっと心配していたが、そんなことはなかった。良かった。

とはいえ、もしもこの先身体が不自由になってしまったとき、何ヶ月も働かずに生きていける貯金なんてなかった。不安だった。責任はすべて自分でとるなんて言っても私ひとりにできることなんて、たかが知れている。

せめて、身の回りをきれいに整えた。いつ手術をするか知らない家族に手紙を書いた。コロナの検査を受けてから、入院することになっていた。

こんなに待って手術が受けられなかったなんてのは絶対嫌だった。
入院の日まで、バタバタと身の回りのことを片付けながら体調に気をつけながら過ごした。

ジストニアに対する定位脳手術を受けました

2020年9月28日月曜日。今は朝の6時。

楽器の練習をするのが楽しみすぎて早く目覚めてしまった。
あとは、1週間の入院生活で強制的に朝型の習慣がついた。

2020年9月24日(木)東京女子医大で定位脳手術を受けました。
信じられないことに、3年近く悩んだジストニアの症状が消えた。今のところ、心配されていた後遺症の症状(喋りにくさや麻痺、力の抜けなど)もない。

まだ術後間もないので、手放しに喜んで良い状況なのかわからない。だけど、おそらくこの先の人生、たくさんのことに挑戦できる身体にしてもらえた。


28歳のときに、ジストニアになってから、数えきれないくらいたくさんのことを諦めてきた。朝起きたら、いつもそこには緩やかな絶望があって、それを受け入れるところから1日が始まるという3年弱を過ごしてきた。

終わったのだ。そして、始まった。

この3年弱に私の身に起きた事を、少しずつ綴っていきます。

局所性ジストニア|不要不急の手術は延期になりました

私が東京女子医大で外来受診したのは2020年2月の半ば。
その頃は「院内でもマスクの着用は義務付けられております」の表示にピンときていないほど、こんな時代がやってくることを予期していなかった。

あれからみるみるイベントやコンサートは中止になった。手の症状の悪化により大変な演奏の仕事を控えて手術を待っているタイミングと、コロナウィルスの影響で仕事がないことが、うやむやになっていた。


コロナウィルスの影響で大切なコンサートやリサイタルが中止になっている音楽家の友達に紛れているような顔をしていたが、私にとって、もともと手術待ちの空白の期間だった。手術の延期によってその空白の期間が、延びようとしているようだ。

コロナウィルスの影響で約3ヶ月半、平先生の手術はストップしていたそうだ。そうですよね。私の手術は早くて年末。この後の東京の状態ではもっと先になるだろう。仕方ない。私が楽器を吹けなくても誰も死なない。

音楽家のジストニアの定位脳手術は整形手術に似ていると思う。本人にとっては大問題だ。でも他の人からしたら不要不急。諦めることに慣れすぎて、正直感情がない。

ジストニアの手術はもともと約半年待ちだった

私が手術を心に決め、紹介状を書いてもらい東京女子医大の平先生の外来を受信するまでに2ヶ月半。外来受診からおおよその手術予定日まで約4〜5ヶ月。

このような事態にならなくても、夏くらいまでは大きな演奏の仕事を引き受けることを控えていた。去年の12月から手術をすることは心に決めていた。

そんな感じで、やりがいのない人生の暇つぶしと将来の貯金作りのような気持ちでYouTubeをはじめた。ある程度熱中できて良い暇つぶしだし、「障害がある私にも、できることがまだあるのだ」と久しぶりに希望のようなものを感じたりもした。

健常者かと錯覚する日々だった

私の左手のジストニアの症状はごく一部のテクニックにしか支障をきたさない。しかし、例えばひとつのコンサートを引き受けたら、そのごく一部のテクニックは何度も登場する。

お金をいただいて、たくさんの方々を前にして仕事として演奏する以上、それをスルーすることは不可能。つまり、プロの仕事をプロとするのは難しい。

そして、左手の神経はイカれていても、私の耳は死んでいない。自分の意図しない音を出すのはかなり精神的に苦しいものがある。

ジストニア以前、私はオーケストラのエキストラの仕事や素晴らしい仲間と演奏することを生きがいにしていた。音楽をやっていて1番喜びを感じられる瞬間はアンサンブルで対話ができたときだと思っている。

残念ながらこの身体では叶わない。

自粛期間中の本番に向けるでもない気軽な練習はなんでも吹けると錯覚してしまう。実際にジストニアだから吹けないものばかりでもない。練習は必要。

でも、どれだけ積み上げても積み上がらない部分が私にはある。クラリネットを吹くのをやめたら、この音はなくなってしまう。でも、私にできることはごく限られている。

東京は今日も大変みたい。

こんな個人的な問題を解決する手術によって、他の人に迷惑はかけられないことは自覚している。限られたできることを粛々とおこない、淡々と生きるしかない。